笹部博司の演劇・舞台製作会社

笹部博司の演劇コレクション

わたしの演劇コレクション

言葉の中には生な感情を持った生きた人間が棲んでいる。
それをそっくり取り出し、舞台の上に解き放つ。

言葉の中にいるのは、役ではなくて、人間である。演技とは、役を演じることではなく、人間として存在することなのだ。俳優が役を演じるという近代俳優術は、間違いではないだろうか。役を理解し、分析し、それを表現する、それが演技だというのは根本的な間違いではないだろうか。それは演技をみせているだけの話だ。人間はいない。
俳優は言葉と出会う。その言葉の中に、演じるのに必要なものはすでにすべて用意されている。舞台の上で、架空の現実の中で、俳優は自分の中にあるイメージのすべてを燃やし尽くす。それが演技というものではないだろうか。つまり言葉の中に、詩と真実がないと、俳優の心に本物のアクティングが生まれないのだ。舞台の上には、生な感情を持った本物の人間がいる。それをどこまでも追い求めるのが、演劇ではないだろうか。

人間の心に起こったことが、人生である。
俳優の心に起こったことが、演劇である。
舞台の上の俳優の中に、何も起こらなければ、舞台には何もない。
俳優の中に起こることを保証するのは、言葉である。
古典とは、つまりそんな永遠の命を持った言葉なのだ。
このコレクションは、そういう言葉の、演劇のコレクションである。

「笹部博司の演劇コレクション」について

このコレクションを一言でくくれば、「悪女」ということになるだろうか。
演劇史上最強にして最悪の悪女、それがメディアである。この世には男と女、その二つが交わって、人類が出来た。その二つは必然であり、宿敵である。メディアは愛する男のために一切を捨てる、しかしその男はメディアを裏切った。ではメディアはいかにして、男に復讐したか。ギリシャ悲劇『メディア』は、その後、星の数ほど生まれたドラマの原型である。
コルネイユ、ラシーヌに代表される17世紀のフランス演劇はすごかった。「ル・シッド」事件の記述を読むとコルネイユの書いた『ル・シッド』がどれほどの評判をとったのかが手に取るようにわかる。評判を取った分足を引っ張られた。その後、登場したのがラシーヌの『アンドロマケ』。この作品も大変な評判で、誹謗中傷もすごかった。ラシーヌは常に抜き差しならない人間の関係を書いている。風船をどんどん膨らませる。膨らんで、膨らんで、最後の風船は爆発する。そして最も見事な爆発が『フェードル』である。もうここまで行けば、痛快というべきだろう。フェードルは、メディアに肩を並べる悪女であり、女優にとっての二大タイトルである。

19世紀から20世紀にかけて、フランスに「ベル・エポック」と呼ばれる時代がある。『シラノ・ド・ヴェルジュラック』『椿姫』『トスカ』などの舞台が上演されたその頃のフランスの演劇が、世界演劇の頂点ではないだろうか。伝説の女優サラ・ベルナールは、ヴィクトル・ユーゴーの大ヒット作『ルイ・ブラス』で、一躍脚光を浴びた。当時の人気劇作家サルドウーは、サラ・ベルナールのために『トスカ』を書き下ろした。そのサラの代表作は『椿姫』で、彼女が一番愛したのは『フェードル』である。

わたしは悪女が好きだ。マルグリット(椿姫)もトスカもどこまでも強くて、我がままで、自分勝手だ。「演劇コレクション」には、『椿姫』と『トスカ』を収録した。演劇史上最高のウエルメイド・プレイである。読んでも楽しんでもらえること請け合いだ!
『野鴨』との出会いが、自分の転機となったことはすでに書いた。それから5年、イプセンばかり読んでいた。無人島に持っていく本はイプセンというくらい入れ込んだ。とにかく読んでいて楽しいのだ。一言一言、一行一行がスリリングでエキサイティングなのだ。イプセンの本はすべて面白い。長い不遇の時代からイプセンを助け出した『ブラン』。上演すれば5時間はかかる大作だが、一瞬も退屈させるところがない。そして、これでもかと人間の嘘と愚かさと間違いを喜劇的に描き出した『ペールギュント』、『人形の家』、『幽霊』などなど。特にお気に入りの『野鴨』(どこにも救いがない。悲惨で絶望的、なのに愛おしく、懐かしい)、『ちっちゃなエイヨルフ』(嘘つき男と我儘女の夫婦が、子供を亡くし、果てしなく責任を押し付け合う)、『ロスメルスホルム』(詐欺師にして、殺人者、父と姦淫を犯した女、同時にこれほど崇高な女はない)、『ジョン・ガブリエルと呼ばれた男』(頂点に君臨した男が、どん底に、その絶望の中で、人生の戦いを諦めない。夢見ながら死んでいった男は果たして敗残者なのか勝利者なのか)、『民衆の敵』(まず楽しい、面白い。コメディとして最高、人間ドラマとして一級、そして社会ドラマとしても今日的)、『ヘッダ・ガブラー』(矛盾の塊、女王ガブラーは、ガラスのように壊れやすい現代悪女の到達点である。ため息が出るほど、かわいい女)をコレクションに収録した。イプセンについては、いろいろな記述、解説があるが、正直、まったく納得できない。ある意味、イプセンは何も書いていない。ただ人間を書いているだけだ。そのイプセンの書いた人間が果てしないのだ。果てしなく愚かしく馬鹿馬鹿しい。そして読んでいくと、それが自分であることに気が付く。嫌ではない。むしろ反対だ。ほっとして慰められ、勇気づけられるのだ。イプセンは作品で自分の内面を告白し、懺悔している。キリスト教徒は、死ぬとき、牧師の前で懺悔して、死に向かう。懺悔して、心の中をすっきりさせて、死ぬのだ。そのすっきりがイプセンの作品なのだ。
イプセンについて付け加えれば、やはり女が素晴らしい。イプセンのドラマの構造は、女を追い詰め、締め付け、本音を吐かせる。その意地の悪さが最高なのだ。だから、イプセンの描く女は光り輝く。
イプセンは、机の上に、サソリを入れた壜とストリンドベリの写真を置いていたという。筆が止まると、その二つで自分を鼓舞したと自分で語っている。イプセンの面白さはとても説明し尽くせない。読んで、その面白さを発見し、体験してほしい。

告白と懺悔という点でその作品を読むと、ストリンドベリはイプセンよりもより露骨であり、過激である。だから、読みようによってはより喜劇的であるともいえる。
エリック・ベントリー「近代演劇研究」は繰り返し読んだ。今でも時々読み返す。ここでのイプセン、ストリンドベリについての記述は、そっくり自分の意見として取り入れた。その指導の下に、『令嬢ジュリー』『債鬼』『死の舞踏』を手掛け、『令嬢ジュリー』を『令嬢と召使』として、コレクションに収録した。
一生を女との戦いに費やしたのは、ストリンドベリだ。その最高傑作『死の舞踏』をこのコレクションに入れられなかったのが、残念だ。ここでの夫と妻の会話ほど、愛しいものはない。

宋家の三姉妹』という映画を見た。興味を惹かれて、その驚異的な三姉妹を調べた。それをそっくり芝居にした。なんというか、人物がシェイクスピア的なのだ。まさに歴史と肌を突き合わせて生きていた。その呼吸一つすら、世界に影響した。それを舞台にしたかった。
悪女なくして、演劇は成立しない。どうか燦然と輝く、悪女をお楽しみください。
特に女優の方、これらの作品を読んでご自身の悪女をお磨き下さることを、切望いたします。

メディア
エウリピデス
Medeia Euripides
フェードル
ラシーヌ
Phedre
椿姫
デュマ・フィス
La Dame Aux Camelias
トスカ
サルドゥー
La Tosca
野鴨
イプセン
Vildanden
ちっちゃなエイヨルフ
イプセン
Lille Eyolf
ロスメルスホルム
イプセン
Rosmersholm
ジョン・ガブリエルと呼ばれた男
イプセン
John Gabriel Borkman
民衆の敵
イプセン
En Folkefiende
ヘッダ・ガブラー
イプセン
Hedda Gabler
令嬢と召使
ストリンドベリ
Froken Julie
宋家の三姉妹
オリジナル台本
The Soong Sister

Amazon.com