笹部博司の演劇・舞台製作会社

演劇についてのあれこれ(その1)

本心は準備できない

本心は準備できない。
今日は、ここから始めたい。
言葉には本心が必要である。本心のない言葉は人の心を動かさない。
演技の中には本心はない。演技は作りものの心である。
芝居の稽古は一か月かけて、お客が感心する本物に見える気持ちを作り上げる。
上手な演技ね。役者はそう褒められることを望んでいる。
お芝居の世界に入ったとき、演劇とはそういうものだった。
それ以外はなかった。
一生懸命、人に褒められる芝居を目指した。
ある時から、そんな芝居が物足りなくなった。
それは言葉である。
言葉が自分の中に作り出す想いと舞台の上の俳優の演技が、どこか違うのだ。
でもどこがどう違うか、うまく説明できない。
ただ違うということだけは、はっきりとわかる。
そこに書いてあるセリフ。それをしゃべっているのは誰だろう。
それは役の人物である。
俳優は役の人物になろうとする。
役の人物を理解し、その言葉の中にある想いを、自分の中に作り上げようとする。
役の気持ちになろうとする。
役作り、その作業がどうもしっくりしない。
しゃべっているのは誰なのか。
もう一度問いかけてみる。
そのセリフをしゃべっているのは、その役を演じている俳優である。
言葉とは心に起こったことだ。
心に起こったことというのは、今現在だ。
とすれば、演技は今、現在俳優の心に起こったことでないといけない。
言葉をのぞき込む。
言葉の向こうには人間がいる。
言葉の向こうの人間、それは作者である。
作者は架空の中に、自分という存在を投げ入れる。
例えば、シェイクスピアは、イアーゴという架空の中で自分の中にある悪意をどんどんとあぶりだしていった。
シェイクスピアにとって、イアーゴは決して現実で体験してはいけない危険な存在である。
イアーゴを読み進んでいくと、大きな快感を感じる。
オセロという偉大を、追い詰め、滅ぼしていく快感。
真実の愛を、真綿で首を締めるように、窒息させていく快感。
シェイクスピアにとって、イアーゴは憧れですらあるように思える。
オセロ」という芝居の恐ろしさは、イアーゴが人類であるということだ。
誰もが、イアーゴの心を隠している、それをシェイクスピアは懺悔し、告白している。
イアーゴは作りものではない、シェイクスピアの本心なのだ。
「オセロ」は人間の嫉妬を描いていると言われている。
嫉妬、これほどわかりにくい感情はない。あっという間に感染し、人間の心を支配する。
では、その嫉妬をどう舞台の上に作り出すのか。
突然、それが自分の心に居座っている。
心に起こったこと。それを発見し、体験する。
繰り返し、シェイクスピアは自分の書いた作品でそう語っている。

目に見えるものは、見せかけの作りものである。それは演技だ。しかし心の中に見せかけを超えたものがある

では、どうやって、心の奥底に隠れている見せかけを超えたものに出会うのか。
そう思ったとき、自分が目にしている演劇との決別が始まった。

  1. 本心は準備できない
  2. 知らない自分
  3. 発見と体験
  4. 今、心に起こっていること
  5. To be, or not to be, that is the question.
  6. 井上芳雄の「夜と霧」
  7. 上白石萌歌の「星の王子さま」
  8. 一羽の鳩
  9. 三國連太郎の座長
  10. 矢崎滋と角野卓造の「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」
  11. 高畑淳子のサー・トービー
  12. 白石加代子のアンジー
  13. 「オイディプス」