笹部博司の演劇・舞台製作会社

演劇についてのあれこれ(その8)

一羽の鳩

開けてはいけないと言われた扉は、どうしても開けずにはいられない、と世界中の昔話は語っている。
人間は誰しも、心の中に開けてはいけない扉、語ってはいけない秘密を抱えて生きている。
キリスト教徒は、死ぬ前に、その心の秘密を神の前で告白し、懺悔する。
オイディプスは、知らず知らずに犯した罪を、神によって洗いざらい白日のもとにさらされ、その眼を、自らの手でえぐりだす。
フェードルが心に抱えているのは、禁断の恋・・・
その恋を、水に例えてみよう。溢れてくる水を堰き止める。堰き止められた水は、どんどんと溜まっていく。その水が外へと出ないように、押し込む。水はのたうち苦しみ、押し込まれれば押し込まれるほど、より強いエネルギーを発揮し、手に負えないものへと変質していく。それをもっと強い力で締め付ける。
すると遂に、秘められた禁断の思いは、一羽の鳩となって空高く舞い上がる。

フェードルはこのように登場する。

もうこれ以上、足が動かない、もうこれ以上、立っていられない、体中から力が抜けていく。日の光で目が眩む。ああ、駄目だ、もう駄目だ、ここに座り込んでしまいそう。みっともなくて見てられないねぇ

分別はどこへ行ってしまったんだろう、どうか探してきて頂戴。神様がわたしを困らせようとその辺に隠しているに違いないの。嫌、嫌、嫌、こんなわたしはもう嫌なの、こんなわたしをもうお終いにしたいの。ああ、自分自身の何もかもが恥ずかしくて堪らない。情けなくて、情けなくて、泣けて来ちゃう

この胸の中には決して人には言えない恐ろしい罪があるの。それは幸いにもこの胸に留まったまま。わたしはその罪を誰にも知られない内に葬り去りたいの。でも、その雛はいまにもかえりそう。もう止められない。それはとてつもない怪物で、それが動き出したらどんな恐ろしいことが起こるか。だからわたしはこの身体を殺すの。今、この身体を殺せば、誰もその忌まわしい罪を見ないですむ。誰よりもわたしがそれを見たくないの。これだけ言えば十分でしょう。この先は聞かないで

お母さまは恋の女神の憎しみを買って、狂気の内に死んでいった。恋の女神はわたしたち一族を目の敵にし、次々に恋の罠を仕掛けて、破滅させていく。お母さまの次はお姉さま。この姉も、辛い恋の痛手で、最期には岸辺にうち捨てられ、見捨てられて死んでしまった。で、次はわたしってわけ。わたしのは、その二人よりももっとひどいの。その二人よりも、もっともっともみじめな運命が待ち受けているの。そりゃひどい悪辣極まりない罠なのよ。それにわたしはかかってしまった。その罠から逃げ出そうともがけばもがくほど、どんどんその罠は身体を締め付けてくるの

恋をしているの、わたしは。気が狂いそうなほどの、この身が焼けただれそうなほどの恋をしてるの

誰に? お前は何て恐ろしいことを聞くんだろう。わたしの恋の相手は、その名前を口にしようとすると、身体にふるえが来て、心がわななく。ああ、わたしの恋の相手は、その呪わしい名前は・・・イポリート! ああ、とうとうその名前を口にしてしまった

初めて出会ったのは結婚式。イポリートは夫となる男の息子。わたしはテゼーとの結婚で安らぎと幸せが得られると思っていた。ああ、わたしの目には今でも焼き付いている。アテネの地で傲然と立ち尽くしたあの姿を。それは宿命のように一瞬のうちにわたしの心を鷲づかみしてしまった。頭が真っ白になって、息が出来ず、目も見えず、かろうじてなんとかその場に立ち尽くしていた。全身が凍り付くかと思えば、火のように燃え上がる。わたしも掴まったんだ。母や姉と同じ運命をたどるのだ。いや、それ以上の恐ろしい恋の炎、避けがたいその責め苦。わたしはひたすら祈った。この血迷った心をどうか助けて。でも祈れば祈るほど、それがどんなに無力な手当かと思い知らされた。だって助けてくださいと祈るはしから、イポリートの姿がどんどんとこの心の中に広がっていくのだもの。なんのことはない、わたしは神殿で手を合わせ、ただただイポリートという神を崇めていただけなの。でもわたしは何とかあの人を遠ざけた。憎しみをかき集め、怯む心を励まして、あの人をしいたげ、継子いじめの母親の邪悪さをよそおって、うるさく叫び立て、父親の元からあの人を引き離した。ほんのしばらくの心の平安、わたしは夫に仕え、胸の痛みを隠して、不運な結婚が実らせた我が子を育てることに心を打ち込んだ。でもなにもかもがはかない努力、残酷な運命は全てをあらかじめ決めていたの。テゼーは生まれ故郷であるこの地へ戻り、ここにはあの人が。するとたちまち生々しい傷跡は血を吹きだした。わたし達一族はあの恋を司る女神に恨みを買い、つけ狙われ、その炎で焼き尽くされる。この血管に炎が駆けめぐる。それでもわたしは身もだえし、口を封じ、なんとかこれまでそれをこの身だけに留めてきた。でももう駄目。もう支えきれない。今にも罪深い炎がこの身体から飛び出す。だから死ぬの。罪を犯す前に、この身を殺すの。他にもう手がない。お前、もしわたしのことを思っているなら、慈悲だと思って、この命を絶つ手助けをして頂戴

そして、告白。

恥知らずよね、こんな恋は。なんてみっともないんでしょう。わかっているわよ。でも踏み出してしまったの。わたしは後悔はしないわ。言ったことは取り消さない。お前が忘れたというのなら、何度でも同じことを言ってやる。わたしは狂おしいほどの情熱の虜になって、恋をしている。その恋の相手は、夫の息子であるイポリート! やましい恋、おぞましい恋。ええ、そう思っていますとも、お前が思う以上に、自分がそう思っているわ。最初にお前を見たとき、恋の女神の残忍極まりない企みがわかった。恋の情火でその身を焼き尽くした、母や姉よりもひどい罠がわたしに仕掛けられている。わたしはどんなに恐れ怯えたことだろう。思い出しなさい。わたしはお前をペストの如く忌み嫌って逃げ回った。挙げ句の果てには追放した。お前に嫌われることは何でもした。この病を消す薬は憎しみだと思い定めて、それを掻き立てることに務めた。何て無駄な努力だったことだろう。火に油を注いだだけ。確かにお前のこのわたしへの憎しみは手に入れることが出来ました。でもわたしのお前を想う気持ちは、お前への恋は少しも弱まりはしなかった。わたしの心の中では、お前は一層の輝きを放ち、巨大に君臨した。わたしはもう息も絶え絶え。もう許して、どうか解き放って、この恋から。なんて不幸な女なんだろう。涙、涙、涙。見なさいよ、このやつれ果てた女を。そう、軽蔑でなくて、せめて同情の目で見て欲しいわ。こんな告白、誰がしたいものですか。恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。ああ、そうだった。わたしはこんな告白をするためにここへやってきたのではなかった。わたしは自分の息子の行く末をあなたに頼みに来たんだ。わたしが死んだら、孤立無援で取り残される、あなたにとっては弟でもあるわたしの息子を、どうか守ってくださいとお願いに来たんだ。それが、何というとりとめのない妄想を、この口は語ってしまったのだろう。わたしの口はとんでもない怪物を吐き出してしまった。お前の父テゼーはいくたの怪物を退治した英雄だった。お前もその英雄の道を歩めばいい。この怪物を退治するのが最初の仕事。どうかこの怪物を打ち殺して。この忌まわしい魔物をこの地上から取り除くの。今はなきテゼーの妻が、その夫の息子イポリートに恋している。この獲物を逃してはいけない。ここがその怪物の、その魔物の急所、どうかこの胸を、お前の剣で突いて頂戴、たった今打ち殺すの。この胸なの、この胸には忌まわしい罪がいっぱい詰まっている、さあ、その罪をその手で成敗するの。それともお前はそんな優しい刑罰では許せないほど、わたしを憎んでいるの。それとも、お前が手を染めるには、この血はあまりにも汚れすぎているというの。だったらお前の手は借りないわ。その剣だけを貸して。後の仕事はわたしの手がやる。さあ、その剣をわたしに

心の奥底に秘められた思いは、今まさに一羽の鳩となって空高く舞い上がっていく。

フェードルのセリフをしゃべっているのは、誰か、それが問題である。
フェードルは、役ではない。
一人の女だ。
フェードルは、いきなり迷い込んでしまった。
そこには知らない自分がいた。
知らない自分は、彼女を引きずり回し、破滅の淵へと追い込んでいく。
演劇とは架空の出来事である。
その架空の出来事が、俳優の中で現実となる。
古典劇には役はない。
人間がいるだけだ。
一人の人間の中には、すべての人間がいて、すべての感情がある。
悪意も善意も、愛も憎しみも。
卑しく醜く、みっともない情けない恥ずかしい自分が。
演技とは仮定の中で、どんな自分と出会うかである。
そしてフェードルは究極の仮定である。
ではフェードルの方へ。
あなたの中から、一羽の鳩が舞い上がるかもしれない。

  1. 本心は準備できない
  2. 知らない自分
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  5. To be, or not to be, that is the question.
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