笹部博司の演劇・舞台製作会社

演劇についてのあれこれ(その6)

井上芳雄の「夜と霧」

井上芳雄さんと一緒に芝居をやるという望外の幸運に見舞われた。
夜と霧」、アウシュビッツを体験したヴィクトール・フランクルの世界的な名著を舞台化する。
おそらく、一番人気があって、みんながスケジュールを奪い合っている俳優が、何の実績も、評価もない演出家とよくやってくださったと感謝、感謝、感謝である。
でも最初の読み合わせで、いきなり大きな壁のぶつかってしまった。
井上さんは見事に読んでくれた。
丁寧で気持ちがこもっている、どこにも問題はない。ただ、それは誰もがやるやり方で、今やりたい方向と違う。
でもどう違うかうまく説明できない。
しどろもどろ、白い目線、そのまま彼は席を立って帰ってしまうのではないかと怯えた。
「夜と霧」の上演台本は、「ハムレット」を下敷きにして作った。
言葉、言葉、言葉である。
言葉の中に想いがあって、人間がいる。
収容所という場所は、想像を絶した理不尽な場所である。
どんな行為にも反抗は許されない。反抗は即、死を意味する。
そしてフランクルの綴った言葉は、予測のつかない出来事の中でその都度見つけた、心の風景である。
そこには体験すべき人生があるというべきだったかもしれない。
その架空の人生の中で、井上芳雄はどんな自分を発見するのか。
しかしそんな抽象的な言葉は、演出家の言葉でない。
たちまちそっぽを向かれる。
演じないで欲しいんですと言って、あきれられた。
困り果てた芳雄さんは、言った。
つまり今の読み方はダメだってことですね
うなずいた。

監視塔
サーチライト
薄明のなかを
暗澹と
疲れ果て
荒涼とした道をのろのろと
ぼろをまとった人たちが
えんえんと
列をなして
歩いて行く

これは収容所に足を踏み入れたフランクルの見た風景である。
わたしはその言葉に恐怖よりも、何か魅了されている心を感じた。
そして捕虜たちの生死を握っている親衛隊の将校を、フランクルはこう描写している。

「背が高くスマートで、非のうちどころのない真新しい制服に身をつつんだ――エレガントな身だしなみです。男は心ここにあらずといった態度で立ち、右肘を左手でささえて右手をかかげ、人差し指をごく控えめにほんのわずか――こちらから見て、あるときは左に、またあるときは右に、しかしたいていは左に――動かした・・・」

ここでフランクルはエレガントという言葉を使っている。自分の命を握っている男をセクシーだと感じているのだ。
心というのは不思議なものだ。
勝手にいろんなことを考える。
フランクルは、見知らぬ世界に踏み込み、恐怖よりも好奇心の方が強く働いているようだ。
俳優はこのように思う。アウシュヴィッツに足を踏み入れた、その時の気持ちというのは、どんな気持ちだろうか。
そして一生懸命、その恐怖の気持ちを作り上げようとする。
見えてきた光景を、真っ白な気持ちでしゃべって欲しいというふうなことを言った。
とにかく、彼はもう一度読んだ。

監視塔
サーチライト
薄明のなかを
暗澹と
疲れ果て
荒涼とした道をのろのろと
ぼろをまとった人たちが
えんえんと
列をなして
歩いて行く

官能的だった。
ドキドキした。
フランクルは不思議なことに、そのその光景に魅了され、心を震わせているのだ。
彼は一瞬にして、それをキャッチした。
予想したものと現実は違っている。
こうだろうと推測し、予想したものを表現する、それが誰もがやる演技だ。
全く面白くない。
単なる類型に過ぎない。
予想と全く違ったものが心に生まれた時、まさに生きた時間が動き始める。
後は本当に簡単だった。

壕の中で作業をしている
灰色の夜明けがあたりをつつむ
頭上の空はいちめんの灰色
雪も灰色
身にまとう衣服も灰色
その顔も灰色

何千回も天に向かって嘆き、問い詰めた
何千回も答えを得ようと煩悶した
この苦しみにどんな意味があるのか
この犠牲にどんな意味があるのか
じわじわと死んでいくことに、どんな意味が
そのとき、いちめん灰色の世界を魂が突き破る
究極の意味を問う究極の問いかけに
いずこからか、「しかり!」の歓喜の声が響き渡る
その瞬間、明け行く朝の陰惨たる灰色のただなか
遠い農家の窓に明かりがともる。

光りは暗黒に照る

まさにシェイクスピアの書いた言葉だ。
フランクルは理不尽な運命に向かって思わず、叫ぶ。

この苦しみにどんな意味があるのか
この犠牲にどんな意味があるのか
じわじわと死んでいくことに、どんな意味が

フランクルには、その言葉を口にする権利があった。
井上芳雄には、その言葉を冷静さをかなぐり捨てて、叫んでほしかった。
これはひとりの言葉ではない。まさに人間、あるいは悲劇に見舞われた人類の声である。
選ばれた生贄として、人類を代表して、その悲劇に抗議の声を上げて欲かった。
「夜と霧」を井上芳雄の心のドキュメンタリーとして上演したかった。
演劇とは俳優の心に起こったことである。
俳優の心に何も起こらなければ、その舞台は無である。
フランクルの心に起こったことが、井上芳雄の心の体験となり、その風景がはっきりと彼の中で描かれ、観客にもそれがみえてくる。
彼が発見し、体験したものは観客のものである。
探し求めていた先に、いつもシェイクスピアがいる。
人間はその時々に考え、判断し、決定し、行動する。
新しい扉、その向こうには新しい自分。
マクベスはつぶやく。
「あるものはなにもない」
あるものを必死に求め、手に入れようとする。
あるものは手に入った瞬間、ないものになってしまう。
だから人間の心の中は、ないものだけだ。
フランクルは、解放の瞬間をこのように語っている。

疲れた足を引きずるように
収容所のゲートに近づく
おどおどとあたりを見回し
もの問いたげなまなざしを交わす
ゲートから外の世界へ
号令も響かない
鉄拳や足蹴りを恐れて
身をちぢこませることもない
のろのろと進む
足を引きずって
自由へと足を踏みだす
牧草地までやってきた
野原いちめんに花が咲いている
だが、「感情」には達しない
色鮮やかなみごとな尻尾の雄鶏をみたとき
ほんの一瞬、心の中で火花が飛び散った
だが、その火花は一瞬で消えた
マロニエの木陰の、小さなベンチに腰をおろす
何も起きない
心の中にはなんの変化もない
わたしたちはこの世界からなにも感じない

解放はすべてを解決する、それを心の頼りに生きてきた。
しかし、解放を手にすると、実はそれは何の解決でもなかったことを思い知らされる。
新しい扉…人生は続く。
その瞬間の苦さが、好きだ。それを芝居にしたかった。
それは、殺人によって王冠を手に入れたマクベスの心の中とどこか似ている。
心の中は常にないものばかりだ。
あるものを追い求め、あるものはないものだけだ。
そして、先に行くべきか、留まるべきか、そう自問しながら、命の尽きるまで、歩き続ける。
そういう意味でも、井上芳雄の「夜と霧」は、見事に演劇だった、そう思っている。

  1. 本心は準備できない
  2. 知らない自分
  3. 発見と体験
  4. 今、心に起こっていること
  5. To be, or not to be, that is the question.
  6. 井上芳雄の「夜と霧」
  7. 上白石萌歌の「星の王子さま」
  8. 一羽の鳩
  9. 三國連太郎の座長
  10. 矢崎滋と角野卓造の「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」
  11. 高畑淳子のサー・トービー
  12. 白石加代子のアンジー
  13. 「オイディプス」