演劇についてのあれこれ(その2)
知らない自分
心に思っただけで、心臓が胸を突き破るほど高鳴り、血が逆流する
と、マクベスは自分の内面を語る。
心に思ったこととは、ダンカンの暗殺であり、王冠である。そしてマクベスは禁断の扉を開き、後戻りが出来ない世界へと入っていく。
開けてはいけない扉、その前に立つ。そしてその中へ足を踏み入れた瞬間、見せかけは粉みじんとなり、見せかけを超えたものが現れる。
演劇は架空と比喩でできている。
そしてシェイクスピアは、架空の比喩でしか、本当は語れないと言っているように思う。
30年以上も昔のことだ。岩波ホールの会議室で、太陽劇団の主宰者ムヌーシュキンの話を聞いたことがある。彼女は、リアリズムに毒された西洋演劇を罵倒し、日本での浄瑠璃や歌舞伎がこれからなすべき自分の演劇の道を示したと熱っぽく語った。
彼女の話に感動したが、正直、その言葉の意味が分かったのは、20年ほど経ってからだ。
つまり彼女も、目には見えない見せかけを超えたものとの出会いを演劇に求めていたのだ。
近代俳優術は役をどう演じるかである。
役の人物を理解し、それを作り上げていく。
役作り、俳優はそれに邁進する。
しかし、それは無意味だと思えてきた。
舞台でしゃべっているのは、誰だ?
役の人物?
違う、俳優だ。
では、その俳優の心が問題である。
その心が作りものの見せかけか、本物か。
演じる、それは作りものの心で書かれた言葉をしゃべるということだ。
一生懸命気持ちを作る。しかし所詮それは作りものである。
よく出来た作りものをうまい演技と呼ぶ。
人はそれをみて、「お上手ね」と感心はするけれど、感動はしない。
人の心を動かすには、本物の心が必要である。
では、本物の心で、その言葉をしゃべるにはどうすればいいのか。
シェイクスピアやギリシャ悲劇、ラシーヌやイプセン、ストリンドベリなどを読むうちに気が付いたことがある。
その言葉の後ろにいるのは人間である、役の人物ではない。
- ヘレナ
- どうして人によって、幸せがこんなに違うのかしら。みんなわたしのこと、きれいって言ってくれる。ハーミアに負けているとは思わない。でも、デミはそうは思わない。みんなが思ってることをデミだけは思わない。ハーミアに迷っているのよ。わたしがデミに迷っているのと同じ。それが恋――あばたもえくぼ。恋する心はどんなものも捻じ曲げてみてしまう。理性なんかどっかへ飛んでいってしまった。いくら自分に言い聞かせても、肝心のこころがここにあらずで、聞く耳がどこにもない。デミだってハーミアの目を見るまでは、わたしにくぎ付けで、誓いの言葉を雨あられだった。それならこれからわたしがどうするか、教えてあげましょうか。ハーミアの駆け落ちをデミに教えるの。そしたら明日の晩、デミはハーミアを追いかけて森へ行く。で、わたしはそのあとを追う。最低の馬鹿。でもわたしはその間、あの人の姿を見ていられる。それだけでも、なにもないよりマシというものだわ。
これは、「夏の夜の夢」のヘレナのセリフである。
どうしてこの言葉をしゃべるのに、気持ちを作る必要があるのだろうか。
自分の心の中にこのヘレナの言葉がある。
その心にしゃべらせればいいだけだ。
心が、そう思えばいいだけだ。
あなたはヘレナではない。ヘレナはシェイクスピアが創造した架空の人物である。
言葉、言葉、言葉・・・言葉がある。言葉の中には心、そして人。人は思う、考える。
人によってどうしてこんなに幸せが違うのか
その言葉があなたを、ヘレナという未知なる人に出会わせる。
その心が自分の中にもあると気づく。
バトンを受け取り、走り出す。
理性なんかどっかへ飛んでいってしまった。いくら自分に言い聞かせても、肝心の心がここにあらずで、聞く耳がどこにもない
この言葉をしゃべっているのは、作りものではない自分の心である。
あなたは知らない自分と出会い、知らない自分を体験している。
恋をすると、とんでもない自分が飛び出し、馬鹿なことを始める。それを考えるといたたまれない。逃げ出したくなる。だのに、気が付くと、もっと馬鹿なことを始めている
心の中には知らない自分がたくさん隠れている。
架空が、その知らない自分と出会わせてくれる。
知らない自分を発見し、体験すること、それが演劇であるとシェイクスピアは言っているのだ。