演劇についてのあれこれ(その13)
「オイディプス」
言葉は意志であり、思考であり、想いである。
では、誰の?
答えは、一つしかないということだ。たった一つ、一つだけ。
それを見つけることが出来るかどうか。
それが古典である。古典には役はない。古典には必然を生きている人間がいるだけだ。
それを役として理解し、演じようとする。それは間違いだ。
運命は神が人間に仕掛けた罠だ。
「メディア」はこのような言葉で閉じられている。
神々は、人間がそうなればいいなということは、成就させず、そうならなければいいなと思う最悪のことを成し遂げてしまう。一体、その意地悪な神々の意図はどこにあるのだろうか。
オイディプスは産まれてまもなく捨てられる。
生まれてくる子供に殺されるという神託があったからだ。
20年後、父親と息子は三俣に分かれた山道で出会う。お互いに道を譲らない。馬車に乗った父が息子の脳天をめがけて鞭を振るい、息子は持っていた杖で反撃し、怒りに任せ、従者もろとも皆殺しにしてしまう。
その先のオイディプスを待ち受けていたのは、テーバイの災難で、オイディプスはそれを打ち破り、自分が殺した父の代わりにテーバイの王になる。妻としたのは、テーバイの王妃イオカステ、母である。
そしてまた20年が経つ。
テーバイの町が飢饉に見舞われ、疫病が猛威を振るい、次々と人が死んでいく。
再び神託。
血が流された。その罪を犯した者は、のうのうとこの地に過ごしている。
その者は償いを受けなければならない。
汚れをこの地から取り除かぬ限り、禍の嵐は止むことはない
- オイディプス
- 流された血、それは一体、誰のことだ?
- クレオン
- あなたの前の王ライオス。
- オイディプス
- 聞いたことがある――会ったことはないが――
- クレオン
- ライオスは殺害された。神託はその者たちへの復讐を命じている。
- オイディプス
- その者たちは今、どこに? はるか昔の出来事を、今どうやってたどれば、その者たちにたどり着くのか?
- クレオン
- 身近を探れば、その姿を突き止められる。執念を持って臨めば、必ず真相が見えてくると。
- オイディプス
- まず聞きたい。殺害の現場はどこなのか? 家の中か、それとも国の中か、あるいは見知らぬ国での出来事か?
- クレオン
- デルポイに行くと言ってこの国を発った。そしてそのまま帰って来ることはなかった。
- オイディプス
- その現場に居合わせた者はいないのか?
- クレオン
- みんな殺された。ただ一人逃げ帰ったが、その者はただうわ言のように、一つのことを繰り返すのみ。
- オイディプス
- その一つのこととは? もしかすれば、それが大きな手掛かりとなるかもしれない。
- クレオン
- 数えられぬ位の――盗賊の群れに襲われたと。
- オイディプス
- それはテーバイ王と知った上での狼藉か。だとすれば、この国の誰かが金を渡し、そのようなことを命じたのか?
- クレオン
- 考えられなくはないが、その時テーバイは大変な災難に遭っていて、王の死どころではなかった――
- オイディプス
- とにかく王が殺されたのだ。そのままにしておいていいはずがない。
- クレオン
- スフィンクスの謎が頭上を覆い、それを追い払わない限りこの国の明日はなかったのだ。
- オイディプス
- わかった。ではもう一度、この問題について一から取り組もう。わたしがその未解決の事件を解き明かしてみせる。さすがはアポロン、どんな罪をも見逃さず、どこまでも正義が行われることをお望みだ。よし、受けて立とう。クレオン、お前も手を貸してくれ。共にこの地に正義をもたらせる闘いに怯むことなく突き進む。わたしはこの国の王だ。わたしがそのような汚れは許さぬ。これは何よりもわたし自身の問題だ。かつての王の殺害者は、その殺害者を突き止めようとする王の殺害者となるだろう。ということは、ライナスのために働くことは自分のために働くことでもある。急がねばならぬ。さあ、みんな嘆願の膝を上げるのだ。そしてテーバイの民全員にこのように告げてほしい。オイディプスは人間の出来ることなら何でもやってみせる。後は、運よく神のご加護でことが成就するか、もしくは滅びて倒れるか、道は二つに一つ――。
預言者テイレシアスは真相を知っているが、口をにごして語らない。
それに業を煮やして、オイディプスは追い詰める。
- テイレシアス
- 知っていてもなんの得にもならない、そんな知恵を持つということはなんと厄介なことだろう。そんなことはわかりきっているはずなのに、うっかりわすれていた。そして今こうやって、ここにいる。
- オイディプス
- これはどうした? ここに来るなりその浮かぬ顔は?
- テイレシアス
- 帰らせて欲しい。そうすれば、お互いの重荷を別々に背負っていくことが出来る。どうかわたしの言うとおりに――
- オイディプス
- おかしなことを! お前を育んだこの国に、その言葉は背を向けるというもの。
- テイレシアス
- 言葉に背を向けねば、自分が追い込まれる。あなたは言葉を重ねて、最早抜き差しがならない。わたしも同じ過ちを犯したくはない。
- オイディプス
- いや、神かけて言う、背を向けるべきではない。正面から立ち向かわねば。我ら一同、このように膝を折って頼んでいる。
- テイレシアス
- それは何も知らないからだ。人の不幸を暴き立てると、ひいては自分の不幸となる――
- オイディプス
- 何ということを! 知っていながら言わないと言うのか。それは裏切りであり、亡国というものだ!
- テイレシアス
- 聞きだしても何の役にも立たない。わたしを苦しめ、王であるあなたを苦しめるだけだ。そんなことをこの口から漏らしたくはない。
- オイディプス
- この人でなし! 一塊の石でさえ、お前には怒りを覚えるであろう。このままではすませない。どんなことがあっても、その口を開かせてやる。
- テイレシアス
- 王、あなたのその気性が自分自身を追い詰めると言っているのだ。非はわたしにあるのではない。
- オイディプス
- これを聞いて、誰が怒らずにいられよう。個人ではない、今は国家の存亡のことを問題にしているのだ。
- テイレシアス
- と言っても、物事はなるようにしかならない。わたしの意思は関係がない。
- オイディプス
- だとすれば、お前は予言者としての務めを果たせばいい。
- テイレシアス
- いや、この口は開かない。怒りたければいくらでも怒れ! あらん限りの怒りをぶちまけろ!
- オイディプス
- ああ、そうしよう。あらん限りの怒りをお前にぶちまけてやろう。やっと真相がわかった。犯人はお前だ。この悪事を企み、自らは手を下さず、ことを成し遂げた。もし目が見えれば、お前は自分の手でそれをやってのけたことだろう。
- テイレシアス
- そう来るか。ではわたしもそれに応じよう。あなたは自分が命じたことを、そのとおりに果たすがいい。そしてたった今から、誰にも口をきいてはならない。ここにいる市民にも、わたしにも。この地を汚した許し難い罪人、それはあなたなのだから。
クレオンはアポロンの神託を持ち帰る。
ありえない濡れ衣を着せられたオイディプスは怒り狂い、クレオンの追放を命じる。
そこへ、イオカステが割って入る。
- イオカステ
- どう考えたってそんなことはあり得ない。大体、わたしは予言なんて全然信用しない。その決定的な証拠があるの。昔、ライオスに神託があった。ライオスは自分の息子に殺されるって。でも実際は道が三俣に分れている山の中で、盗賊の群れに襲われて死んだ。それに子供は、生まれて三日もたたないうちに両の踝を留め金で刺し貫き、山の奥に捨てられた。アポロンの予言した親殺しなんて起きなかった。アポロンですらこうなんだから、人間の予言者なんて推して知るべしよ。それに神様だって、言いたいことがあったら予言者なんかの口を借りずに、自分で言うでしょうよ。だから気にしちゃ駄目。わかった。
- オイディプス
- ちょっと待て。ちょっと。
- イオカステ
- どうしたの?
- オイディプス
- さっき、お前、ライオスは道が三俣に分れている山の中で殺されたって言わなかったか。
- イオカステ
- そう聞いているけど。
- オイディプス
- それはいつのことで、場所はどこだ。
- イオカステ
- ポーキスという、デルポイからの道と、ダウリスからの道が合わさるところよ。
- オイディプス
- で、今から何年前のことだ?
- イオカステ
- あなたが王位につく少し前かしら。
- オイディプス
- なんだこれは、一体どういうことだ?
- イオカステ
- どうしたの?
- オイディプス
- 今は俺が聞いてる。教えてくれ。ライオスはどんな体つきで 年はいくつぐらいだ?
- イオカステ
- そうね、そう言われると、背格好も、髪に白いものが混じり始めたところも、今のあなたそっくりね。
- オイディプス
- ということは、たった今、俺は自分にとんでもない呪いをかけてしまったということだ。
- イオカステ
- どういうこと? 何かわたしまで恐くなってきた。
- オイディプス
- 頭の中に暗雲が立ち込め始めた。あの予言者はすべてを見通す目を持っていたのか。もう一つ教えてくれ。それではっきりする。
- イオカステ
- ああ、恐い。何、言って。なんでも答えるわ。
- オイディプス
- ライオスの一行は、大勢だったのか、それともごくわずかだったのか?
- オカステ
- 総勢五人よ。そのうちの一人が伝令。ライオスは馬車に乗ってた。
- オイディプス
- すべてが明らかになった。
オイディプスは死体となった母であり妻である王妃の胸のブローチをはぎ取り、その留金で自らの目を刺し貫く。
他の選択はあり得ない。必然とはつまりそういうことだ。
どうすべきかと考えた時、選択は一つである。
- オイディプス
- そういうことか、そういうことだったのか、今、やっとわかった。すべては仕組まれていたのだ。この世に生まれたのが間違いだった。決して手をかけてはいけない人の血を流していた。決して臥所を共にしてはいけない人と子をなした。なんとおぞましく呪わしいことか。見たくない、もう何も見たくはない。さらばだ、この世の光よ。どうだ、この目よ、もう何も見るな! 俺は巨大な力で粉々に打ち砕かれた。俺の背には、おぞましくも恐ろしい罪がのしかかる。お前はこれまで何を見て来た。何も見分けることが出来ず、いらぬものばかりを見つめてきた。もう何も見るな。これからは暗闇だけを見つめていろ。おお、悲しみがこの胸から吹き上げる。こんなにもみじめな人間がこれまでこの世にいたことがあるか。見ろ、見ろ、見ろ、この姿をその目に焼き付けろ。声がうつろに響く。大気の翼が、俺の声を彼方此方へと、吹き散らす。俺はどこへ行くのか。この足は俺をどこへ運ぶつもりだ。不幸の崖っぷちにいざなうのか。おお俺の運命よ、お前は俺をどこへ連れて行くのか? 恐ろしい。真っ暗だ。一部の隙間もない漆喰の闇がこの身を包む。闇が連なり、怒涛のように押し寄せ、この身を持ちあげ、叩き伏せる。そして記憶だけが研ぎ澄まされ、それが無数の針となって、この身を刺す。心がうずく。ああ、苦しい、ああ、痛い、ああ、辛い!
俳優はこの言葉をどう語るのか。
その運命の中で出会った言葉は、そうでしかない心が語ったものだ。
作りものの心でしゃべれるわけがない。どうしてそこに演技が入り込む隙があるのか。
他の選択はあり得ない。必然とはつまりそういうことだ。
必然は個が、人間全般に変貌する瞬間である。
必然という巨大な力が働いたとき、人は個から公となり、ためらいなくありえないことを選択している自分を発見する。
その瞬間、俳優は劇場のヒーローとなる。
奇跡は個の力ではできない。必然の力が後押しし、ありえないことを成し遂げる。
それこそ、観客が望むものではないだろうか。
神に選ばれた生贄、それがオイディプスである。
オイディプスは真正面からそれを受けとめる。
むしろその運命を与えた神に挑戦的である。
自分の目を刺し貫くのは、誇りであり、抗議なのだ。
必然という人間の選択。
それゆえにオイディプスは永遠のヒーローなのだ。
あの名高きオイディプス、スフィンクスの謎を解き、国を苦境から救い出し、見事に国を治め、誰もが敬い、憧れた男。それが今、明日をも知れぬ旅に出る。前に待ち受けているのは、嵐が吹きすさび、巨大な壁のような波が次々と押し寄せる荒海。人の運命は測りがたい。誰も最後の日を迎えるまでは、手綱を緩めてはいけない。幸せはほんの一瞬で暗転する。たった今まで誰もが幸せだと思っていた人生が、たちまち苦悩の荒海へと投げ込まれることがあるのだから。
この言葉をどう読むべきなのだろうか。
たくさんの苦難を受けた人間こそ、一番神に愛された人間であるということではないだろうか。
試練と苦難という愛が、俳優を輝かせる。