演劇についてのあれこれ(その14)
現実は願望の結果である
「オイディプス」のシチュエーションは、その後、ありとあらゆるドラマの中で繰り返される。
さっきこう問いかけた。
その意地悪な神々の意図はどこにあるのだろうか
その答えはこうだ。
命は生き続けることを命じている
リアは最悪の運命の中でこう叫ぶ。
忍耐だ。われわれは泣きながらこの世にやって来た。知っているな、生まれて初めて空気を吸うと、おぎゃあおぎゃあと泣くもんだ。いいことを教えよう。よく聴け、生まれおちると泣くのはな、この阿呆のひのき舞台にひきだされたのが悲しいからだ
そしてマクベスは、
明日も、明日も、また明日も、とぼとぼ、とぼとぼと歩きつづける、土にかえるその時まで。消えろ、消えろ、つかのまのともしび。人生はたかが歩く影法師
そしてオレステスは、
どうして人間は間違いばかり犯すのだろう。どうして人間は悪に傾くのだろう。小さい頃は美しいものが好きだった。優しい心でみんなを労わりたいと思った。自分が正しければ、世界はきっと正しいものになると信じていた。でも、一度道に迷うと、正しい道へは戻れない。運命はどんどんと横道へと逸れていく
ロシアの小説家プーシキンの「スペードの女王の微笑み」は皮肉な運命のシンボルである。
あなたの女王が負けでございますと、シェカリンスキイは慇懃に言った。ヘルマンははっとした。一の札だと思っていたのが、いつの間にかスペードの女王になっているではないか。彼は自分の眼を信じることも、どうしてこんな間違いをしたかを理解することも出来なかった。途端に、そのスペードの女王が皮肉な冷笑を浮かべながら、自分の方に眼配せしているように見えた。
現在は、その人間の願望の結果である。
二十歳の頃から、その言葉を呪文のように唱えながら生きてきた。
自分の一切を賭けた勝負に負けたヘルマンは発狂した。
運命は最後の瞬間、願望と正反対の結果を演出する。
それがスペードの女王の微笑みである。
問題は、その後も人生は続くということだ。
人生は思い通りにはいかない。
神は、人間がそうなればいいなということは、成就させず、そうならなければいいなと思う最悪のことを成し遂げる。
現実は、その瞬間瞬間の選択が行きついた末である。
マクベスは、他の選択が可能だったのかと考える。ダンカンの暗殺という選択は、自らを滅ぼすことになる、それがわかっていたとしても、その選択を回避出来ただろうか。
気が付くと、とんでもないところに流されている。しかし、人生は続く。
神の命じるまま、坂道を上り続けなければならない。
ハムレットの「to be or not to be」というつぶやきは、そのことの確認である。
予想のつかない現実の中で、思考が判断し、決断する。
- アルテミス
- ギリシャ軍総大将アガメムノン、お前に告げる。娘イピゲネイアを生贄として捧げよ。そうすれば風が吹き、トロイアを我が物にできる。だが、申し出を拒めば、何も手にすることは出来ぬ。
- アガメムノン
- これは罠だ。逃げ道はない。生贄を拒めば、俺はギリシャから見限られる。では娘の血を流すのか。その先には人間としての腐敗と堕落が待ち受けている。心の安らぎも幸せももう望めない。選択するのはこの俺だ。このおとし穴の名前を知っている。必然・・・神が人間に突きつける罠。抜き差しならない。進むことも退くこともできない。それでもどちらかを選択せねばならない。どちらを選ぶ、娘かギリシャか。どちらを!
白石加代子はクリュタイムネストラとしてつぶやいた。
私だって自分のしたことがいいとは思ってない。気が付いたら、ここにいるの。いつ、どこでどう迷ったんだろう。今となってはもうわからない。私もね、一生懸命やって来たのよ。みんなによかれと思ってね。でも気がついたら、今の自分がここにいる
イプセンはこう語る。
寒さの中で人間は衣服を着こむ。この衣服とは比喩である。人間は罪を犯す。そして罪を偽りで隠そうとする。寒さが激しくなると、衣服をどんどんと着込んでいく。衣服とは欺瞞である。
またこのようにも語っている。神は一枚のシーツを人間に与える。シーツは一枚、取り換えることはできない。シーツは汚れ、破れ、ボロボロになっていく。それが人生だ。
しかし人間は夢を見ることが出来る。夢の中ではシーツは真っ白だ。それを現実に出来ないのか。
いわば、それがイプセンの演劇である。
ジョン・ガブリエル・ボルクマンは後戻りできない人生の中でつぶやく。
一つの考え、一つの判断、一つの選択、そのどれをとっても紛れもなく俺自身だ。他にどんな道もない。何度辿っても、結局、俺はここにいる。俺はこうでしかなかった
シェイクスピアは罪にまみれたリアの人生を書いた。
リアは両手にコーディリアの死体を抱き、こう叫ぶ。
可哀想に。俺の阿呆がしめ殺された。もう駄目だ。もう助からん。犬も、馬も、ネズミも、みんな命をもっておるのに、なぜお前だけ、息をしていない。もうお前は戻って来んのか。二度と、二度と、二度と、二度と、二度と、戻って来んのか! お願いです、どうかこの首のボタンをはずしてください。ありがとうございます。ああ、これで息が出来る。ご覧ください。わたしのこの顔を、この唇を、ああ、やっと。やっとだ。これで身軽になった。ああ、ありがとうございます
そしてシェイクスピアはわたしたちにこの言葉を残した。
時代の重荷は、どんなに辛くとも、生きていく我々が担っていくほかない。腹を割って話し合おう。見せかけや作りものの言葉は口にしない。もっとも年老いた者が、もっとも苦しみに耐えられた。残されたわれわれは、これほどの辛い目に遭うこともなければ、これほどの長生きをするわけでもない。そう思えば、何でも耐えていけるはずだ
言いたいことはこういうことだ。
シェイクスピアも、イプセンも、ギリシャ劇の作家たちもみんな現実を書いているということだ。
シェイクスピアはこう考えたのではないだろうか。リアが許されるのなら、自分も許され、真っ白な心でこの世を去れる。
「リア王」はシェイクスピアの懺悔と告白である。
一時期イプセンばかりを読んでいた。
「野鴨」の中に、豪商ヴェルレという男が出てくる。
息子は父をこう断罪する。
- ヴェルレ
- ・・・おまえ、わしは世界で一番嫌な人間か?
- グレーゲルス
- あんたの嫌なところをさんざん見てきましたから
- ヴェルレ
- お前はいつまでたっても、お前の母親の目でわしを見ているんだ
- グレーゲルス
- きっとそうだと思います。お母さんは残らず見てきたんです、あなたのやってきたことを。あんたとたくさんの女たち。お母さんはその最後の女のお陰で決定的なダメージを受けた。お母さんが亡くなったのは、まさにその女のためだ。ギーナ・ハンセン。その女を、あんたが破滅させたあの可哀想な男の息子、ヤルマール・エクダルにおしつけた。飽きたら、ぽいと捨てる。それにしても都合のいい捨て場所を見つけたものだ。どうしてそんなひどいことが出来るんだろうか。まったく人間のやることじゃないですね
- ヴェルレ
- 一言一言、まるでお前の母親の言葉を聞いているようだ
- グレーゲルス
- あなたのこれまでやってきたことを見ると、まるで死体の山だ。あんたはその死体を踏みつけて、平然と歩いているんだ
このヴェルレは間違いなくリアであり、またイプセン自身である。
「野鴨」は13歳の少女ヘドヴィックの死で幕を閉じる。
ヘドヴィックはヴェルレの娘である。しかしイプセンは、ヴェルレがヘドヴィックのことをどう思っているのかを一切書いていない。
ヴェルレの罪が、ヘドヴィックという聖を産み出した。
ヴェルレがどれほど自分の娘を愛していたのか、そしてヴェルレへの神の罰がヘドヴィックなのだ。
ヴェルレは自分の人生で初めて愛する者が出来た。だがそれを抱きしめることが出来ない。
「野鴨」の世界では愛が吹き荒れている。
そしてその愛が、一人の少女を死へと追い詰める。
登場するすべての人物が、ヘドヴィックの死に手を貸した。
神はそうなればいいなという現実にではなく、そうならなければいいなという現実を作りだす。
演劇はあり得ないことをえがいている。
そこではあり得ない選択が待ち受けている。
マクベスはダンカンを暗殺し、オイディプスは父を殺し、母と寝、自らの目を刺し貫く。
彼らは、そのありえない選択以外の選択を選ぶことが出来ない。
必然とはつまりそういうことだ。
どうすべきかと考えた時、選択は一つだった。
では、俳優はその人生の中でどうすべきなのか。
俳優はその罪の中へ、すべての観客を誘わねばならない。
その運命の中で出会った言葉は、そうでしかない心が語ったものだ。
作りものの心でしゃべれるわけがない。どうしてそこに演技が入り込む隙があるのか。
そこには神の罠が待っている。逃げられない必然の人生に飛び込み、自らを破滅させる。
そして破滅の先に解放がある。
カタストロフィとカタルシス(浄化)が演劇である。
演劇はリアリズム(あり得る世界)ではない。演劇はあり得ない世界の中でのあり得ない自分との出会いなのだ。
そこには経験したことのない体験が待っている。いや、一生体験することのない出来事が待っている。
その世界で自分を解き放つ。
演劇は想像の出来事である。
しかし想像であっても、心は熱くなり、涙が流れる。
そして涙は作りものではなく、まぎれもない本物である。
演劇が求めているのは、本物の心なのだ。
作りものの想像の世界の中のあり得ない出来事の中で、人間は自分の中に隠れた本物の心に出会うことが出来る。
どうも堂々巡りをしているようだ。
強引に終局へと突っ走ろう。
イプセンはジョン・ガブリエル・ボルクマンにこのように語らせている。
鉄が歌う。鉄をハンマーで叩いて掘り出す。その時に、鉄は歌うんだ。ハンマーの音は、真夜中につく鐘の音だ。その音が、地面の中に閉じ込められた、鉄を解き放つ。その時、鉄は喜んで、歌うんだ。鉄は地面の中にいる間、ずっとその時を待っていたんだ。日の目を見て、世の中の役に立ちたいと思っていたんだ
鉄はボルクマン自身である。
そして鉄の挑戦は失敗する。
ボルクマンは失敗した自分にこう語りかける。
しかし俺は今、この夜のしじまの中で、お前たちの耳元でこっそりと囁こう。俺は、お前たちを愛していると。地の底深く、死んだように横たわっているお前たちを、俺は愛していると。果てしない力、果てしない栄光を生み出す源となるお前たちを、俺は愛していると。光り輝く人生を与えてくれるお前たちを、深く深く、俺は愛していると。俺は王国が欲しかった。果てしない力、果てしない栄光が欲しかった
そして鉄の手が、ボルクマンを元いた地の底へと引き戻す。
最後にこう聞きたい。
ボルクマンの人生は失敗だったのか成功だったのか。
すべての人がボルクマンの人生はひどい失敗だったと断じるだろう。
ボルクマンの最後は見事にリアの最後に重なる。
お願いです、どうかこの首のボタンをはずしてください。ありがとうございます。ああ、これで息が出来る。ああ、やっと。やっとだ。これで身軽になった。ああ、ありがとうございます
神々は、人間がそうなればいいなということは成就させず、そうならなければいいなと思う最悪のことを成し遂げてしまう。一体、その意地悪な神々の意図はどこにあるのだろうか。
こう思う。ソフォクレスもシェイクスピアもイプセンも、その意地悪な神々の意図に挑戦した。そして逃げられない現実に夢の懸け橋をかけ、その夢の懸け橋を渡って、この世界から逃げ出し、あちらの世界へたどり着いた。
オイディプスもリアもボルクマンも願望通りの人生を生きたのだ。
最後の瞬間にやるべきことをやり尽くした幸せな人生だったと思うことが出来れば、それは勝者の人生ではないか。
失敗した人生への限りない愛、それが演劇である。