笹部博司の演劇・舞台製作会社

演劇についてのあれこれ(その10)

矢崎滋と角野卓造の「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」

他者を愛する、そこに演技の本質があるように思う。
人は自分しか愛せない。しかし自分だけ愛していると限界がある。
ではより大きな愛に出会うにはどうすればいいのか。
作曲する、絵を描く、物語を書く、彫刻を刻む、いわゆる芸術はより大きな愛を求めた行為ではないだろうか。
スポーツだってそうだ。勝利のためにすべてを投げ出して戦うという構造が、人の心を無私にさせる。
演劇はその原型だ。
セリフという言葉と向き合う。言葉の中には他者がいる。
三國連太郎は、あの男が嫌いだ、もう付き合いたくないと言った。
あの男とは、ロナウド・ハーウッドが創造した架空の人物、サーと呼ばれるシェイクスピア俳優。
自分勝手で、我がままで、どうしようもない男。
泣き喚き、怒りどなり、間違いと失敗を繰り返す。
しかし、観客はその三國連太郎の創造したどうしようのない男に笑い、泣き、感動の拍手を贈った。
あれは三國連太郎の愛だったのだと思う。
彼は、そのどうしようもない男に、自分の持てる一切を投げ込み、愛の限りを尽くした。
その愛に包まれた、サーは、チャーミングでセクシーでユーモアに満ち、観客を魅了した。
演出家のロナルド・エアーは言った。
アルバート・フィニーのサーよりもいい
三國連太郎はサーという架空を通して自分を愛し、観客の愛を獲得した。
ぐるりと一回りして、より大きな愛に出会う、それが舞台であり劇場だ。
愛を裏返すと憎しみがある。
だからあの男は嫌いだ、もう付き合いたくないと言ったのかもしれない。
あの時、あれほど乗り気だった三度目の「ドレッサー」をなぜ突然拒絶したのか、今でもわからない。
キャスティングの打ち合わせをして、食事までごちそうになって別れた。
マネージャーに言われた。三國さんに奢ってもらったなんてすごいわね
二度やって飽きたのかもしれない。
いや、本当の理由はこうだ。
三國連太郎は70を超してセリフが入らなくなっていた。
あるいは舞台という重労働がおっくうになった。
わからない。
三國連太郎という存在そのものがフィクションで謎に包まれている。
三國連太郎は、自分にとって自分が謎で、そのまま向こうの世界へ行ってしまったように思える。
あるものはない。あるものはないものだけだ
いつも、このマクベスのセリフが思い浮かぶ。

矢崎滋という役者がいる。
彼とはいくつかの舞台をやったけれど、いつも思い出すのは、一番最初の「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」(トム・ストッパード作 松岡和子訳)だ。
上演は1985年パルコ・パート3。相手役のギルデンスターンは角野卓造。
その舞台稽古が最悪だった。
自分が一体何を作りたかったのか、さっぱりわからなくなってしまった。初日が来なければいいと思った。
売り出したとき、たった8枚しか売れなかったチケットが、間際になって売れて、初日は満員。
一番後ろの席で、こっそりと隠れるようにして幕が開くのを待った。
演出はシェイクスピア・シアターの出口典雄。
彼は不安げにうろついていた。目が合った。隣に腰掛けた。震えているように見えた。
明かりが消える。演出家とプロデュサー、二人は手をつないだ。やっぱり震えている。
暗闇の中で声が聞こえる。ローゼンクランツ、矢崎滋の声。
おもて
劇場中にさざなみのような笑いがかすかに起こり、それが広がった。
うっすらと明かりが入る。
同じくローゼンクランツ、矢崎滋の声。
おもて
その瞬間、思いもよらないことが起こった。
劇場中が爆笑したのだ。
わけがわからない。
そんなところで笑いが起きたことは、稽古場では一度もない。
一番驚いたのは舞台の上の二人だ。
思いがけない反応に、うろたえている。
隣の席のそれまで弱気だった出口典雄が俄然強気になった。
だから言ったんだ
それからは何をやっても受けた。
二人は絶妙だった。
ローゼンクランツとギルデンスターン、ハムレット劇のほんの端役。ある日、突然城に呼び出され、わけのわからないまま、事件に巻き込まれ死んでしまうドジな二人組。

ロズ
家に帰りたい。
ギル
これくらいのことでガタガタするんじゃない。
ロズ
こんなとこにいると調子が狂う。
ギル
じきに無事に、全然安全に、つつがなくなくなっちゃって、帰れられ、帰るれ、られ・・・帰れる。
ロズ
俺の屁には負え・・・目には負え…手には負え・・・背には負えな・・・い・・・
ギル
すぐに帰れるようにしてやるよ。
ロズ
――気がどんでん返しで――動てんして・・・どんどん気持ちがでんぐり返って――
ギル
――ちゃんと帰れられられるれ――

矢崎滋は舞台の上をちょこまかと動いた。様子を見に上手から下手に。そしてまた上手に戻って、見てきた様子をギルデンスターンの角野卓造に報告する。
そのちょこまかが実にかわいらしく、それが今でも目に浮かぶ。
そして思う。あれが矢崎滋の隠し持っていた、見せかけを超えたものだったのだと。
あの舞台の二人にはどこにも演技がなかった。
あれはその瞬間瞬間、心に起こったことだ。
ローゼンクランツとして、ギルデンスターンとして、あたふたと右往左往し、必死に生き延びる道を探す。
よかれと思うことがすべて裏目に出て、知らず知らずに死へと追いやられていく。
その度に「これ以上はひどいことにはならないだろう」と楽天的に自分に言い聞かせる。
気が付くと、置かれた状況は絶望的で最悪で後戻りできない。
しかし、その中で矢崎滋と角野卓造は、深刻であるより、軽妙だった。
それは、二人のローゼンクランツとギルデンスターンへの愛だ。
彼らは、二人の登場人物の誇りを守った。
矢崎滋はローゼンクランツとして叫ぶ。
俺たちは何も悪いことはしていない! 誰も傷つけちゃいない。そうだろ?
それは矢崎滋の本心としての言葉だった。
角野卓造はギルデンスターンとしていう。
はっきりと言えた時があったはずだ――「いやだ」と。しかし、なんとなく、言いそびれてしまった。この次は、こんなヘマはしないぞ
これもやはり、角野卓造の本心だった。

それから、10年後、生瀬勝久、古田新太で「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を上演した。
出演交渉をした時のことを忘れない。
改築される東京駅の近くの喫茶店。
金髪の古田新太は言った。
俺、赤毛物が嫌いなんです
生瀬勝久は言った。
東京で芝居が出来るんだったら何でもいいです
二人の上演のため、ローゼンクランツとギルデンスターンのセリフを大阪弁に書き換えた。
この二人も絶妙だった。
何しろ、二人は笑いに貪欲である。
この芝居はキャスティングを変えて、二度再演した。

これは後日談だ。
一時俳優のマネージャーをしていたことがある。テレビの現場で泉ピン子と話す機会があった。
彼女は突然、矢崎滋の話を始めた。彼がどんなに厄介で困った人間かという話、それがしばらく続いて――
でもね、いい役者なのよ。私ね、パルコでね『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』という芝居を観たのよ。その時の彼の芝居がそりゃもう素晴らしくて
彼女は、矢崎滋と角野卓造の『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』の舞台を事細かく解説してくれた。
最後まで口を挟まずに聞いた。
その芝居に自分が関わっていたことは言わなかった。
ほんとにピン子さんはいい人だった。

韓国ドラマ「ミセンー未生―」を観始めた。たちまちはまった。商社に入った若者たちの物語。
不合理な組織。理不尽な扱い。次々に襲い掛かる災難。失敗と挫折。
しかし暗くはない。描かれているのは戦いである。
様々な人間がうごめいている。その人間に対しての目配りが素晴らしい。誰一人ないがしろにされていない。それぞれの人間の中の尊厳。
俳優たちが素晴らしい。誰もが自分の演じる人物を愛している。俳優たちは、迷い悩み苦しむ人間たちと人生を共にし、その人間を愛おしんでいる。その失敗を間違いを愛おしんでいる。
なぜ、日本の俳優はそうしないのだろうか。なぜ、演技のことばかり考えているのだろうか。どんなに気持ちをうまく作り上げても、それは作りもので、本物ではない。
本物は一つだけ。自分の心の中にしかない。人間はどんな瞬間も自分である。他人にはなれない。そのことに気付くべきである。
テレビを観ていると元貴乃花親方がこう言っていた。
韓国ドラマを観ていると涙が流れてしようがないんです。どうしてなんでしょうか
俳優の心の中に起こったこと、それが演技だ。他者への愛。他者への涙。ぐるりと一回りして、それが観る人の涙となる。

矢崎滋のローゼンクランツ、あれは矢崎自身だった。角野卓造のギルデンスターン、あれは角野自身だった。
間違いばかりしている愚かしい二人の男は彼らだった。そして、私たちだった。
それは愛でつながっていた。

  1. 本心は準備できない
  2. 知らない自分
  3. 発見と体験
  4. 今、心に起こっていること
  5. To be, or not to be, that is the question.
  6. 井上芳雄の「夜と霧」
  7. 上白石萌歌の「星の王子さま」
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  11. 高畑淳子のサー・トービー
  12. 白石加代子のアンジー
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