演劇についてのあれこれ(その7)
上白石萌歌の「星の王子さま」
「星の王子さま」の翻訳書が本箱にあった。
何度か読み始めるのだが、最後まで行ったためしがない。いつも何が面白いのかわからず、やめてしまう。
そしてこう思った。
「星の王子さま」が愛読書だなんて言っている人は、きっと偽善者だ。
ある時、本屋に行くと、「星の王子さま」のいろんな翻訳書が並んでいた。
サン=テグジュベリの翻訳権が切れて、いろんな人の翻訳が読めるようになったのだ。
思いついて、あるだけ買い求めて、一冊ずつ読み始めた。
この作業が結構面白く、一言一言の言葉の中に隠された王子の秘密が少しずつ見えてきた。
王子は砂漠で眠っている飛行士に、恐る恐る「すみません」と話しかける。
フランス語を調べると、最大限の丁寧語で書かれている。
しかし、次に 眼を覚ました飛行士に突然、「ヒツジの絵を描いてくんない」とため口で話しかけるのだ。
何故態度が急変したのか。
王子は何故「ヒツジの絵が必要なのか」
飛行士が適当に書いた箱に、王子は何故動いているヒツジを見るのか。
そう思って読めば、王子には何故という秘密がいっぱいである。
星に取りついて、根を張り、星を壊してしまうバオバブの木、一日に四十四回も夕陽が沈むのを眺める小さな星の孤独な王子。そこへやってきた花。花は厄介で、わがままで、王子を振り回し、王子は花を置き去りにして逃げ出してしまう。いろんな星のヘンテコな住人達。ヘビ、きつね・・・そこに記された言葉には必ず内面がある。その内面は、まさにサン・テクジュペリという一人の男の人生だ。
気がつくと、この物語も「ハムレット」だと思った。
目に見えるのはみせかけで、大切なものはみんな隠されているのだ。
飛行士はサン=テグジュベリ自身である。そしてバラは常に喧嘩ばかりして離別を繰り返していたサン=テグジュベリ夫人のコンスエロ。そして王子は?
物語は王子の死を暗示して終わる。
サン=テグジュベリは「星の王子さま」を書き終えて、飛行に出かけ、戻らなかった。
覚悟の自殺だという説もある。
また、今度こそ、コンスエロとの生活をやり遂げるのだと書いているメモも見つかっている。
飛行士は王子の内面を見つめ、その秘密を探り当てようとする、それがこの物語の構造だ。
つまり、サン=テグジュベリは、「星の王子さま」という物語を通して、自分が何者だったのか、自分の人生にはどんな意味があったのかを探り出そうとしているのだ。
サン=テグジュベリは作家として、成功し、名誉も、金も、女も手に入れた。
しかし、彼の心はないものばかりだった。
不思議に彼が懐かしく思いだしたのは、あの誰も訪れない飛行場での日々だ。
あの孤独で何者でもなかった空っぽの時が、もしかしたら、彼の内面が一番輝いていたのかもしれない。
サン=テグジュベリは三度の墜落を経験している。
二度目は、墜落した砂漠を彷徨い、誰もが死んだと思い始めた頃、生還した。
三度目は、生還しなかった。
こんな光景は、空っぽの心にしか映し出せない。
夜明けの砂漠は一面のハチミツ色
その色はたまらない幸せをあたえてくれる
なのに、こんなにも悲しい
サン=テグジュベリは王子の中に、自分が生きてきた孤独を見ている。
- 王子
- 一日に四十四回見たこともあった。・・・さびしいって気分の時には、夕陽はとってもきくんだ。
- 飛行士
- 一日に四十四回、そんなにさびしかったんだ。
「星の王子さま」を台本にし、上演した。
最初は、新潟の子供たちで上演し、それから原嶋元久・飛行士、水石亜飛夢・王子で。
最後に上演したのは、井上芳雄・飛行士、木村花代・バラ、上白石萌歌・王子のキャスティングだ。
この舞台での井上芳雄は、エンターティメントとアートを見事に融合してみせた。
上白石萌歌と二人だけの抜き稽古をやった。
いつも最初の言葉が問題だ。
その音の中に、生きた心があるかどうか。
王子の最初の台詞がすみません、そのすみませんに一日費やした。
ダメ、ダメ、ダメ、そうじゃない
萌歌ちゃんは何がダメなのかさっぱりわからず、ボロボロ泣きながら、その日は帰って行った。この人とはきっと一生友だちにはならないと固く決意しながら。
何が気に入らなかったのか。それは彼女が可愛くて、芝居がうまくて、模範生だったからだ。
だって、王子は悪い奴だよ、意地悪で、いたずら好きで、自分勝手で、わがままで、いい子の仮面をほんのちょっとでもかぶっていられない、そんな奴なんだ。
王子は砂漠の中に、飛行士を見つけ、必死の思いで話しかける。
すみません
王子は後一週間後に、地球を後にする。その時に、どうしてもヒツジの絵を持って、バラの待っている星に帰らなければいけない。
バラは王子の元にやってきた。その種に水をやり、花を咲かせた。大人になったバラは厄介で意地悪で、王子を困らせてばかりいた。
バラは大人の男として、彼女に向き合わない王子に自分の愛を気づかせたかったのだ。しかしそれがわからない王子はバラと喧嘩して、星を出てしまった。
今度、バラに会う時は、ヒツジ(男)でなくてはならない。
- 王子
- 花は何百万年も前からトゲをつけている。ヒツジは何百万年も前から花を食べている。花は苦労して何の役にも立たないトゲをつけているわけじゃない。それを知ろうとすることは大事なことだ。ヒツジと花の何百万年もの闘いが、どうでもいいなんてことがあるわけがない。デブの赤ら顔の男の計算より、こっちのほうがよっぽど重要で大切な問題だ。ぼくの星には、どこにもない、世界中でたったひとつの花がある。きみにとってのたったひとつの花を、なにも知らないヒツジがある朝やってきて、とつぜん食べてしまったら、それでもどうでもいいなんて言える。
花は女で、ヒツジは男だ。人間の世界は男と女で出来ている。王子はバラのトゲの恐れをなして、星から逃げ出した。しかし、そのトゲには愛が隠されていたと気がつき、大きな後悔に襲われる。
サン=テグジュベリは没落した貴族の生まれだ。
最初は経理の仕事。帳簿の数字を写す。その仕事の成果は必要ない。与えられた時間、狭いの部屋に大きな体を縮ませ、ひたすら時間が進むのを見ている。さっきから、まだ三分しか時計は進んでいない。
次の仕事がトラックを売り歩く仕事。一年やって、一台も売れなかった。
その次は、飛行場の整備。訪れる飛行機はまれで、トカゲがはなし友だちだった。
その時、王子は星めぐりの住民だったのだ。時には王様で、うぬぼれ男で、のんべえで、星を管理するビジネスマン・・・
また、サン=テグジュベリ夫人のコンスエロの夫との愛憎に満ちた手記も呼んだ。
それはかなり捻じれて歪んだ愛で、夫は妻に暴力をふるったこともあったらしい。
「星の王子さま」という一冊の本には、まさにその人生のすべてが塗りこめられ、サン=テグジュベリは、この物語で自分自身のことを告白し、懺悔している。
子どもの心を持ったまま大人になってしまったサン=テグジュベリ、大人になっても子供のままでいるなんて迷惑な存在だ。かくして彼は成功するが、孤独は深まるばかりである。
王子はそのサン=テグジュベリの心の叫びを代弁しているのだ。
彼は、小さな王子の存在を通して、自分自身を浄化したかったのだ。
王子になった萌歌は自分の中の意地悪で、いたずら好きで、わがままな部分を思いっきり解放した。
星めぐりの中で、いろんな大人をやりこめる萌歌のその辛辣さに、井上芳雄は時々言葉をなくし絶句した。
萌歌の王子はどの瞬間も真情にあふれ、変幻自在で彩りに満ち、のびのびと自由だった。力いっぱい舞台で生きている萌歌は、可愛くて、切なくて、愛おしく、観客は笑い、泣いた。
実は、誰もがそんな自分を心の奥底にもっているのだ。
そして観客は萌歌の王子を通して、心の中の自分に出会っているのだ。
舞台は人間に出会う場所だ。
架空と比喩の中に本当があるのだ。
「星の王子さま」という架空と比喩の中に、サン=テグジュベリという一人の男の人生の秘密が隠されている。それを自分を通して、発見し、体験し、観客のところまで届ける。
上白石萌歌は見事にその仕事をやり切った。
彼女は観客の心にカタルシスを与えた。